先日、こちらに「
本末転倒ってのはこういう事か。」というエントリをUPしたんですけど、「率直な感想」的なノリでUPした事もあり、割とアバウトな書き方になっていたので――今回は前記の(自分が書いた)エントリの補足を含めつつ、自分なりに「
ブログ文章術」さんや、そこからリンクなどを辿ってゆく中で拝見した「
23mm_シホゴンパパのひとりごと」さんが言及されている内容について思った事を書いてみたいと思います(※尚、今回は長文になりそうなので、内容を複数エントリに分けてUPします)。
冒頭部分のリンクにある「
ブログ文章術」の筆者・米光氏が仰るところの
「書きたいように書けない人」は、書きたいことが、ある。
書きたいことがなければ、「書きたいように」と考えもしない。
――という部分や、「
23mm_シホゴンパパのひとりごと」の筆者・23mm氏が、
◆「書けない族」考(2006年02月20日)
◆「記号化」について(2006年02月20日)
◆蛇足(2006年02月22日)
◆蛇足の蛇足(記号化の補足)(2006年02月24日)
◆誤解なのか、解釈なのか(2006年02月24日)
――といった記事で語られている内容に概ね同感だった私は、両Blogへ「率直な感想」として「
本末転倒ってのはこういう事か。」というエントリ(タイトルがちょっとアレですが)をUPし、トラバさせていただいた次第です。
……で。
今回はもう少し、前回のエントリより自分なりに思った事を掘り下げていこうと思います。
とりあえず「文章術」という言葉からは離れてみる。
ここの所、米光氏の「ブログ文章術」(exciteブックス内で連載中)を起点として、様々なBlogで「文章術」がそれぞれの管理人の視点で思い思いに展開されているようです。ある意味、見方によっては「意見の万華鏡」として楽しめるのですが、別な見方によっては「論争」と見えなくもない部分もありますね。
ただ、私個人としては――こういった動きについて前者的な視点で捉えており、「みんなで考え、意見を出し合う」事で米光氏が「これ」だと書かなくても、自然に「ブログ文章術」なるものが「出来上がっていく」事を、「閲覧者」としては楽しみたい気持ちが主体で、「論争」しようっていう気も「論争」になるようなネタであるとも、実は感じていなかったりするんですよね(この辺については【その2】あたりで語る予定)。
…んで、Blogの管理人(=書き手)としてはどうなのかというと、基本的には「閲覧者」としてのスタンスと大差はないものの、「書きたい事があるのに、書けない」事について、Blogという場で「語る」(もしくは「問いかける」?)人が現れたことに、興味津々。
何故なら、今までは「いいネタの見つけ方」とか「閲覧者の増やし方(別名、カウンタの回し方)」といった見地で語られる「文章術」(というより、もしかすると「Blog術」といった、もっとアバウトな意味合いの方が合うかもしれないけど)的な扱われ方が多かったように思うのですが、今回の「ブログ文章術」を起点とする一連の展開はどうもそれとは違う様相を呈してきている気がするんですね。
簡単に言ってしまえば、米光氏の記事を起点として交わされているコメントやトラバは「生の声」であり、「今、Blogという場で文章を書いている」人達の経験談や、文章で(Blogという場で)何をしたいのかといった事に至るまで、「それを実際にやっている人でなければ言えない事」が大半を占めているという事が、私にとっては興味深いのです。
勿論、色々な方の意見が寄せられる分、勉強になる反面耳が痛いことも多々あるし、面白いこととも同じくらい沢山出会うことができます。それは、従来の「ハウツー本」における一方通行な「書き手」と「読み手」の関係では、なかなか実現できにくい形ではないでしょうか。
でも、この「文章術」って言葉を中心に据えると固定概念に囚われて、頭が硬くなりそうな気もするんですよね。実は(苦笑)。だから、今回はそれをあえて「置いておく」スタンスで、私としてはこの本文を進めてゆくことにします(えー)。
読書嫌いってわけじゃないんですけど。
私は「読書家」と他人に言えるほど読書量が多い人ではないですが、「本を読む」って事自体は好きな方なんです。だから、好きな作家や面白い作家の文章がどうして面白いのか、そして何が面白いのかも朧気ながら自分なりに感じてはいます。
でも、それはその作家の言葉であり文体であって――いくら「面白い」と感じても「自分」のものではないし、実際好きな作家や面白い作家のエッセンスを多少参考にしてみても、ピンとくる表現に必ずしも出会えるわけではないんですよね。
加えて、自分自身のイメージを表現できずに「あーでもない、こーでもない」と考えを巡らせている最中、他者の言葉の中であまりに自分の表現したい形を言い当てたかのような表現と出会うと、何だかシャクに障ってしまうというか(苦笑)それをあえて避け――別の表現を探し始めることも……。
別に天邪鬼ってわけでもないんだけど、何となく悔しいっていうんでしょうかね。そんな時「書きたい事があるけど(自分の言葉で)書けない」事が、とても不自由に思えたりするんです。だから米光氏が
「書きたいように書けない人」は、書きたいことが、ある。
書きたいことがなければ、「書きたいように」と考えもしない。
――と書いてらっしゃるのを拝見して、「そうなんだよなぁ……」としみじみ思ってしまった次第です。
「視点」の数や「書きたいこと」の数は、必ずしも「書けない」を「書ける」に変えてくれるわけじゃない。
例えば――夕日を見て「赤い」と表現する人がいれば、「オレンジだ」と表現する人だっていますよね。でも、どちらも「夕日」の捉え方や表し方として「間違い」なのかといえば決してそうではなく――どちらかだけが「正解」なのかといえば、そうとも実は言い切れない……。
何故なら、どちらも表現した本人にとっては「正解」であり「(そう思った、という意味での)本当」だからです。例えばそれを他人が「違うよ」とか「ちょっと待て」とか(苦笑)「ズレてる」とか、ツッコミを入れたとしても。
そして「赤」や「オレンジ」に見える視点だけでなく、もしかしたら更に多くの「色」を「夕日」というものから見出す人だっているかもしれません。だけど、「赤」や「オレンジ」単体の捉えかたの人と、もっと多くの色をイメージとして捉えた人の間に「優劣」があるとは思っていません。
何故なら「(表現へと繋がる)物事を見る際の『視点』が幾つもあるから書ける」かというと、却って「(色んな視点で見つめるからこそ)幾ら考えてもピタリとくるものと出会えない」と悩む原因になるケースだってあるし、視点が「少ない」から「即決」で書けるかというと、必ずしもそうとは言い切れない部分があるのではないかと思うからです。
これと同じようなケースは幾つかあるでしょうね。例えば「表現の手段が『少ない』から」とか、「表現に用いることのできそうな、他者のテクニックの蓄積(読書とかで得られる範囲の、という意味ね)が『足りない』」から「書きたい事があっても、書けない」のかといえば、そうとは言い切れないというケース。そして、「書きたいことがあるのに、書けない」ケースもあれば、「書きたいことって特に意識してないけど、書いちゃえ」で「書けてしまっている」ケースもまた、あるでしょう。
しかし、そういった幾つかの「対」であり、相反するはずのケースはどれも言葉に変換すると「書けない」という一言になってしまう可能性があるわけで、そう考えると何だか不思議な反面、面白くもあります。
もっとも――私自身も「
23mm_シホゴンパパのひとりごと」さんの記事「
『書けない族』考(2006年02月20日)」によると「書けない」族なので、あまり「面白い」とも言っていられないんですけど(苦笑)。
――というわけで。
この記事の続きとなる「【その2】」では、もう少し具体的な例を挙げつつ「書けない」事そのものについて、自分なりに考えた事など書いてみたいと思います。
(【その2】へ続く)
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