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《看板》って言うと――パッと思い出すのは、店舗のどっかに据え付けられてる、アレ。板であったり、電飾されてるものであったり、店先に立ってるタイプであったり――と、目に触れるその姿は様々だ。
でも、《看板》って言葉で連想されるものは、別にそれだけじゃない。
歌舞伎や落語の世界では、功績の大きい名跡を《金看板》なんて呼ぶ事がある――といった話を、どこかで聞いた憶えがある。
そして、俗に《老舗》と呼ばれるような――創業からの年数が長く且つ、顧客からの信頼や世間一般においての信頼を得ている店にも、そういった言い回しが使われることがあるらしい、といった話も。
では逆に「世間で《看板》ではなく《ブランド》という言葉で表される頻度が多いものといったら何だろう?」と考えてみた時、私の感覚でピンときたのは服飾系における、"それ"だった。
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例えば、世界的に名を知られる《ブランド》(服飾店/メーカー)というのがあったとする。では、その《ブランド》とは――果たしてどういった事を指すのだろう、と(仕事の空き時間、暇だったので)自分なりに考えてみた。
まず、《ブランド》という表記のままじゃ自分の中では微妙に捉え難いので――先程の《看板》という言い回しに再び置き換えてみる。……で、次に「《看板》とは何ぞや?」という方向で、一つ一つ段階を追う形で掘り下げて(辿って)いくことにした。
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これはあくまで私個人の捉え方になるけれど、《看板》っていうのは大雑把に言っちゃうと二つの意味を含んでいると思う。
1つは、それが《何》かを端的(パッと見)な形ながら、ある程度相手に分かりやすく伝える意図で掲げられたもの、という意味。
もう一つは、それを掲げている側自身における、己が世間や掲げているものに恥じないよう務める《覚悟》――という意味だ。
だから、《看板》は時を経ていくごとに、世間の信頼が厚くなるほどに、重たく、大きく、厳しくなっていく種類のものだと思う。
……と同時に、《薄利多売》とは対極にあるといってもいいのが《ブランド》であり、そうであればこそ《ブランド》は《ブランド》で勝負してナンボだろうとも思う。
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ただ人を集めて数を売る――というだけなら、道端の叩き売りの領分だし、それで事足りる。《看板》なんてなくても、大きな声で「得するよ」という部分を殊更にアピールし、お客を集めればいいのだから。
じゃあ、《看板》の――《ブランド》の《何》にお客は《御代》を払うのだろうか。
お客は、自分でできることや作れるもの、手間をかけても苦じゃないものに対して、基本的には金を払ったりはしない。したがって、それらと真逆のもの――つまり、自分でできないこと、自分で作れないもの、手間をかけたくないもの――に、基本的には金を払うと考える事ができる。
例えば、出汁取りからラーメン作るなんて無理、と思えばラーメン屋でラーメンを食べる。でも、ラーメン屋に足を運ぶのも手間だと感じたら、家でカップラーメンにお湯を注いで食べる――といった具合に、だ。
そのほか、お客が金を払うケースとしては「誰かより得したい」部分を刺激するもの。即ち、他者との《比較》から優越感に大なり小なり浸れる――といったケースも考えられる。
例えば、《先着●●名様》とか《限定●●セット》とか、《シリアルナンバー入り》とか、《期間限定》とか、《購入者にのみ応募の権利》とか《購入者全員プレゼント》とか《購入者にのみ、パスワード配布》――といった種の《釣り》の匂いがプンプンするタイプの商法とお客の関係などが、そうだ。
では、《商品》とは何かというと――それは《売る側が作ったり、提供するもの》のこと。
例えば《商品》が服だった場合、デザインし、素材を選び、色を選び、型紙を作り、生地を裁断し、縫製し、店頭に陳列される――という、一連の《仕事》を経てお客の目にはじめて触れる種類のもののことを指す。
つまり、お客はその《仕事》――の底辺に流れる《姿勢》や《心意気》の《質》と、完成した《商品》自体の《質》に金を払っているわけだ。そして、それら一つ一つが店側とお客の《信頼》という形で積み重ねられてもいく。
だからこそ、《看板》の《価値》っていうのは――年月をかけながら蓄積された、店側の《仕事》や《お客》に対する《覚悟》があって初めて、意味があるものなんじゃないかと思うのと同時に、先程言ったような《釣り》商法をお客に対して展開しようと思ったり、そうしなければ立ち行かなくなっている時点で、その《看板》はもう《看板》の体をなしていないのかもしれない、とも思う。
ただ、《看板》の価値には、それを掲げた側がどんな覚悟を持ち、どれほど努力したとしても、下がってしまうケース――というのも世間にはあったりする。
それは、《看板》だけで《商品》を見ない客や、《商品》の《仕事》ではなく《付加価値(お得感)》を優先してしまう客が落とす金と、その底辺にある安易さによって起こる。《釣り》商法が一見上手くいっているように見えたり、集客や売り上げにプラスな効果だけをもたらす《魔法》とか《困ったときのナントカ》に見えているかもしれないけれど、それは全く逆だと私は思う。
《釣り》商法は、《看板》を安くはしても、より高みに上らせることは多分ない。何故なら、あれは麻薬のようなものだからだ。
瞬間的に売り上げや集客がアップし、苦戦を脱する事ができたかのように思えても、「少しでも自分の負担を減らし、得はとりたい」という不景気下におけるお客の心理からすれば、《釣り》商法以外の日に買いにいくのは《損》という事になるからだ。
したがって、普通に売ってる値段より安くなったり、付加価値があるときしか店が賑わわない状態になり、やがて《釣り》商法が飽きられる頃には《看板》そのものが傾き始める――てな事にもなりかねない。
実際、《釣り》商法で集まるお客というのは、《値札》と《付加価値》しか目に入らず《仕事》は値段を下回らなければいい(自分が後で、買って損したと思わなければいい)という程度にしか考えてない事が殆どだ。……なので、《釣り》をやってる間の集客アップは、そこの《看板》をお客が信頼した結果でもなければ、《仕事》を評価した結果でもない――というケースが少なくない。
だが、こういった商法では――なにも店側だけがお客に《安く》見積もられるわけではない。「特典目当てなら、普段買わない値段でもホイホイ金を落とす」とか、「●●のファンは、こういう企画で簡単に金を落とすファン」と思われたりしている可能性も考えず、金を落とすお客もまた――店からすれば《カモ》なんだから。そこには《看板》における、お客と店の《信頼》なんてものや、お互いに対する感謝や敬意なんてものは、微塵も感じられない。
ただ、そうは言うものの(さっきも言ったかもしれないけど)、《看板》が《釣り餌》をぶら下げないと、《看板》自体の価値では人を呼べてないとか、《商品》の売り上げが伸びてない、という時点でもうその《看板》が《終わってる》事に変わりはない。
《看板》を掲げる以上は、その《看板》で勝負してナンボ。そして、《看板》とは《仕事》の《質》と、お客との間に築いてきた確かな《信頼》であり――それを掲げる《覚悟》なのだから。
……なので、他者のネームバリューとか、ファン層とか、《限定》とか、そういう姑息で他力本願風味なものを《釣り餌》としてぶら下げなきゃ、客に足を自ら運んでもらったり、自分たちの《商品》を選んでもらえないような《看板》には、多分そうなる理由がもっと根本的なところにあるんだろうと思うし、もう《看板》の体をなしていないのかもしれない――とも思う。
新しい事を模索しつつ《攻め》るのも勿論大事だろうけど、自分たちの《仕事》を信じてお客は金を払うんだっていう《信頼》と、そのお客が買って損したと思わないような《仕事(質)》を維持していく《覚悟》を、いかにして他店との競争の中で貫いていくかって部分の方が、もっと大事なんじゃないかと思うから。
でも、だからといって――お客を《餌》で《釣る》ような真似をするのは違う。数ある《看板》の中から、《商品》の《質》で選んでもらえるような《仕事》をする――それが一番基本にして、一番大切なことだと思う。
《看板》って――その裏に《仕事》の《質》を磨きつつ、《商品》を作ったり提供する人達がいて、その心意気に金を払い長く使い続けるお客がいて、両者の関係が紡いだ見えない糸がしっかりと壁に据え付けているからこそ、傾くことなく掲げ続けられるものだと思う。
だからこそ――《看板》がホントの《信頼》によって掲げられているものであるなら、その《看板》に《延命措置》なんてものは、そもそも要らない――そんな風にも思う。
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